
はじめに
近年、急速な技術革新、雇用形態の多様化、そして格差拡大といった社会的変化に対応するための新たな社会保障制度として、「ベーシックインカム(BI:Basic Income)」への関心が高まっている。
これは、すべての市民に対して無条件で定額の現金を支給するという仕組みであり、生活保障の再構築や個人の自由の拡大を目的としている。本稿では、ベーシックインカムの可能性と、その導入に伴う課題について多角的に考察する。
ベーシックインカムとは何か
ベーシックインカムとは、国や地方自治体がすべての国民に対し、所得や就業状況に関係なく一定額を定期的に支給する制度である。
生活保護や年金といった既存の社会保障制度とは異なり、給付対象や使用目的に条件がない点が大きな特徴である。目的は、最低限度の生活を保障すると同時に、個人がより自由に働き、学び、生きることを可能にすることである。
導入の可能性と期待される効果
1. 貧困と格差の是正
ベーシックインカムは、貧困層の生活を直接的に支える手段として期待されている。特に、生活保護を受けづらい層(いわゆる「働く貧困層」)にも支援が届くことで、経済的セーフティネットを広く拡充する効果があると考えられている。
2. 労働の自由と柔軟性
無条件の収入があることで、人々はより柔軟な働き方や創造的活動に挑戦しやすくなる。ブラック企業からの脱出や、副業・起業といったリスクを伴う選択もしやすくなるだろう。また、育児や介護といった無償労働にも価値が付与される側面もある。
3. 行政コストの削減
現在の社会保障制度は、申請、審査、監視といった複雑な行政手続きが膨大なコストを生んでいる。ベーシックインカムはこうした仕組みを簡素化することで、制度全体のコスト削減につながる可能性があるとされている。
4. 消費の下支えと経済活性化
一定額の現金給付は、特に低所得者層にとっては即座に消費につながりやすく、経済の下支えとしても機能し得る。また、コロナ禍における特別定額給付金のように、緊急時の消費刺激策としても有効であることが示された。
導入における主な課題
1. 財源の確保
最大の障壁は財源である。例えば、日本で月額7万円を全国民に支給すると仮定すると、年間で100兆円規模の財源が必要になる。既存の社会保障制度の見直しや所得税の増税、富裕税や消費税の引き上げなど、持続可能な財源確保策が求められる。
2. モラルハザードと勤労意欲
一部では、「働かなくても生活できるなら、労働意欲が下がるのではないか」といった懸念も存在する。
しかし、実証的な実験(フィンランドやカナダで行われた試験導入など)では、就労意欲が大幅に低下するという証拠は見られていない。むしろ、自らの意思で職業訓練を受けたり、精神的な安定を得たりする人が多かったという報告もある。
3. 不公平感や制度への信頼
一律支給の形式には、「本当に必要な人にだけ届けるべきでは?」という意見が根強い。また、高所得者層にも同額を支給することに対する不満や、税金の再分配機能が逆転する可能性への指摘もある。制度設計においては、納税と給付のバランスに対する社会的な納得が必要となる。
4. 既存制度との整合性
年金制度、生活保護、児童手当など、現在の複雑な制度とどう整合性を取るかも課題である。既存制度との統合や代替、あるいは併存の道を取るのか、制度全体の整理と再設計が不可欠だ。
海外での導入・実験事例
ベーシックインカムは、実際に世界の一部地域で導入・実験が行われている。フィンランドでは2017年〜2018年にかけて、失業者2000人を対象に月額560ユーロを無条件で支給する試験が行われた。
その結果、就労率に大きな変化はなかったが、対象者の幸福度やメンタルの健康状態が改善したという結果が報告された。
また、アメリカではカリフォルニア州ストックトン市が民間資金でBIの実験を行い、受給者の雇用状況が改善したという報告もある。インド、ナミビア、韓国、スペインなどでも類似の試みが行われており、注目が集まっている。
今後の展望とまとめ
ベーシックインカムは、単なる社会保障制度の一形態にとどまらず、現代社会の構造を根底から見直す可能性を秘めている。技術の進展により失われる雇用、不安定化する経済状況、そして拡大する格差といった課題に対し、BIは一つの有力な解として浮上している。
ただし、その実現には社会全体の理解と合意、財源の明確化、制度設計の精緻化が不可欠である。単に理想を語るだけではなく、具体的な課題と向き合いながら、小規模な実験や段階的な導入を通じて現実的な形を模索していくことが求められるだろう。
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