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織田信長は本能寺の変で死んでいなかった?──今なお語り継がれる「生存説」の真実

織田信長は本能寺の変で死んでいなかった?──今なお語り継がれる「生存説」の真実

まず、史実とされる流れをおさらいしておきましょう。

天正10年(1582年)6月2日未明、明智光秀は突如として1万3000の兵を率い、京都の本能寺を包囲しました。
信長は少数の家臣とともに宿泊しており、圧倒的な兵力差の中で応戦したものの、もはや脱出は不可能。
最期は自ら火を放ち、「是非に及ばず」と叫びながら自害した――と『信長公記』などには記されています。

しかし、信長の遺体は見つかっていません。

焼け跡から発見されたのは、誰のものか特定できない焼死体のみ。
この一点こそが、400年以上にわたって「生存説」を生み続ける最大の理由です。


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信長生存説①:安土城から脱出していた説

最も有名なのが、「本能寺にいたのは影武者で、信長本人は脱出していた」という説です。

この説では、信長はすでに光秀の不穏な動きを察知しており、京都滞在中も複数の護衛や影武者を配置していたとされます。
そのため、本能寺で自害したのは影武者であり、本人は密かに安土城や堺方面へ逃れたというのです。

特に堺は南蛮貿易の拠点であり、信長と親交の深かった宣教師ルイス・フロイスも滞在していました。
「もし逃亡したとすれば、海外へ渡るルートを確保できた可能性がある」という点で、後述の「南蛮逃亡説」へとつながっていきます。


信長生存説②:南蛮(フィリピン・マカオ)逃亡説

信長は戦国時代の中でも、特に西洋文化を積極的に取り入れた人物でした。
鉄砲、南蛮服、洋時計、宣教師との交流――その姿勢は他の大名とは一線を画していました。

そこで登場するのが「南蛮逃亡説」。
本能寺の変の直前、信長は宣教師フロイスらを通じてマカオやフィリピン方面との貿易ルートを把握していたとされます。
また、堺にはポルトガル船が頻繁に入港しており、そこから南洋へ逃れることも理論上は不可能ではありません。

実際、一部の古文書や宣教師の記録には「ノブナガという人物が異国の地で生きている」と読める断片的な記述が存在。
また、江戸期に出回った『信長公遺文集』の中には「彼は海を渡った」とする文献も見られます。


信長生存説③:鹿児島に落ち延びた説(薩摩逃亡説)

もう一つの有力な説が「薩摩逃亡説」。
これは、信長が九州の島津氏のもとへ逃れたというものです。

薩摩には古くから「信長がやってきた」という伝承が複数残されており、
鹿児島県日置市や指宿市には「信長塚」「信長神社」と呼ばれる場所も存在します。

また、地元の古老たちの間では「南蛮衣装を着た異人風の武将がいた」という口伝が残っており、
これが信長ではないかと推測する研究者もいます。

さらに、薩摩はキリシタン文化の影響も強く、南蛮船の寄港地でもありました。
この地で信長が姿を隠しながら余生を送った、というロマン溢れる説です。


信長の死が確認されなかった理由

なぜ、信長の遺体は見つからなかったのでしょうか。
考えられる理由はいくつかあります。

  1. 本能寺が完全に焼け落ち、遺体が炭化して判別不能だった

  2. 家臣が遺体を持ち去り、敵に見せなかった

  3. 明智軍が意図的に隠蔽した

  4. そもそも本人がいなかった

特に4番目の可能性――すなわち「信長は最初から本能寺にいなかった」という仮説こそが、生存説の根幹です。


信長の死後も現れた“謎の人物”

本能寺の変から数年後、各地の文献には「信長を名乗る人物」の記録が点在します。

  • 1585年、堺に“ノブナガ様”と呼ばれる人物が目撃された

  • 1590年代、南蛮船に“オダ”と名乗る日本人貴族が乗っていたとの記録

  • 江戸初期、長崎で“信長の落人”を自称する人物が活動していた

これらはすべて史料的な確証はないものの、「信長生存伝説」が江戸時代にまで続いたことを示しています。


なぜ人々は「信長生存説」に惹かれるのか

信長は、戦国時代にあって革新的で、時に常識を超えた行動を取る人物でした。
城を焼き、僧を討ち、国を再構築し、西洋技術を受け入れたその姿は、まるで“近代の先駆者”のよう。

そのような人物が、あっけなく家臣に討たれる――
この終わり方に、人々が納得できなかったのかもしれません。

「信長は死んでいない」――この説は、彼が残した影響力の大きさの裏返しとも言えます。


歴史的には「死亡」が定説、だが謎は残る

もちろん、現在の歴史学では織田信長は本能寺で亡くなったというのが定説です。
一次史料『信長公記』や、同時代の宣教師フロイスの記録が一致しており、確証のない伝承とは区別されています。

しかし、遺体が確認されていないという事実は、完全には消えません。
だからこそ、400年以上経った今も、多くの人が「信長はどこかで生き延びたのでは」と想像を巡らせるのです。


まとめ:信長は「死んでも死なない」存在

織田信長が本能寺の変で死んでいなかった――
この説が人々の心を捉えるのは、単なるロマンだけではありません。

「もし信長が生きていたら、日本はどうなっていたか」
この問いが、私たちに“歴史のもう一つの可能性”を感じさせてくれるのです。

史実の向こう側に潜む“信長の影”。
それは、今もなお日本人の想像力を掻き立て続けています。

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