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1890年の日本初の経済恐慌:近代化の影で生まれた株価崩壊

1890年の日本初の経済恐慌:近代化の影で生まれた株価崩壊

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明治日本の経済変革と最初の試練

明治維新(1868年)以来、日本は急速な近代化を進めてきました。欧米列強に追いつくための殖産興業政策により、産業が活気づき、企業設立ブームが起きていました。しかし、1890年、このブームの反動として日本史上初の本格的な経済恐慌が発生します。この恐慌は、金融逼迫、企業倒産を伴い、近代資本主義の脆さを露呈しました。歴史的に「1890年恐慌」または「明治恐慌」と呼ばれ、後の金本位制導入のきっかけとなりました。

この記事では、恐慌の背景、原因、経過、影響、解決策を詳しく解説します。恐慌は日本経済の転換点として、現代のバブル崩壊を思い起こさせる教訓を残しています。

明治時代初期、日本は封建社会から近代国家へ移行中でした。政府は工場建設、鉄道敷設、鉱山開発を推進し、民間企業も急増。1880年代後半には「企業勃興」と呼ばれるブームが起こりました。しかし、この過熱が1890年に崩壊し、恐慌を引き起こしたのです。経済史家によると、この恐慌は日本資本主義の「幼児期の病」であり、投機の危険性を示す典型例です。

背景:殖産興業と企業勃興の時代

1870年代から、政府は欧米の技術を導入し、産業基盤を強化しました。1872年の鉄道開業、1877年の東京株式取引所の設立が象徴です。1880年代に入ると、不換紙幣(兌換できない紙幣)の発行増加でインフレが進み、投機熱が高まりました。1887年から1890年にかけて、企業設立数は急増し、株式市場が活気づきました。例えば、1886年の企業設立数は約200社でしたが、1889年には約500社に達しました。

このブームの原動力は、政府の財政出動と民間の投機でした。1886年から景気が回復。綿紡績業、鉄道業、鉱業が成長し、株価は1889年にピークを迎えました。東京株式取引所では、株価指数が1886年の100から1889年に200以上に上昇しました。しかし、この成長は実体経済を上回る投機によるもので、金融機関が株式払込に資金を集中させた結果、資金の偏在が生じました。

銀本位制の下、銀価格の変動も背景にありました。日本は銀本位通貨を使用していましたが、国際銀価格の下落が輸入増加を招き、貿易赤字を拡大。これが恐慌の遠因となりました。経済学者は、この時期を「投機資本主義の萌芽」と位置づけ、恐慌がその限界を示したと分析しています。

原因:投機ブームの崩壊と金融逼迫

恐慌の直接原因は、企業勃興の反動による株価暴落です。1880年代後半のブームで、株式市場に過熱投資が集中。金融機関は預金を株式払込に回し、流動性が低下しました。1890年に入り、株価がピークから急落。東京株式取引所の株価指数は1890年1月の200から5月には100以下に落ち込みました。

主な原因は以下の通りです:

  1. 投機過熱: 企業設立ブームで株式が乱発され、実態のない会社も多かった。投資家が短期利益を狙い、株価がつり上がったが、利益実現売りが殺到。
  2. 金融逼迫: 銀行が株式融資に資金を注ぎ込み、貸出余力がなくなった。預金流出も起き、金利が上昇。
  3. 輸出減少: 絹糸や綿糸の輸出が減少し、貿易収支が悪化。国際銀価格の下落で円安が進み、輸入物価が上昇。
  4. 政策要因: 政府の財政緊縮が景気を冷やした。松方財政の残滓として、デフレ圧力が残っていた。

 経済史研究では、この恐慌を「ストック・マーケット・クラッシュ」の典型例として扱い、後の1929年大恐慌と比較されます。

経過:株価暴落から全国的な混乱へ

恐慌は1890年春に本格化しました。1月から株価が下落し、5月には東京株式取引所でパニック売りが発生。多くの企業が倒産し、銀行の不良債権が増加しました。恐慌は関西にも波及、大阪株式取引所でも株価が半減しました。

夏頃には金融機関の取り付け騒ぎが起き、預金流出が深刻に。政府は緊急融資を試みましたが、効果は限定的でした。恐慌は1891年まで続き、企業倒産数は数百社に上りました。農村部では米価下落が農民を苦しめ、社会不安を増幅しました。

この経過は、近代日本経済の脆弱性を露呈。政府の対応が遅れたため、恐慌が長期化しました。

影響:経済・社会の深刻な打撃

恐慌の影響は多岐にわたり、日本経済に深い傷を残しました。まず、企業倒産と失業増加。1890-1891年に数百社の企業が破綻し、労働者が路頭に迷いました。銀行業界も打撃を受け、不良債権が積み上がり、金融システムが揺らぎました。

社会的に、農民反乱が頻発。米価下落で農村経済が崩壊し、自由民権運動の残党が反政府活動を活発化しました。1890年代初頭の農民一揆は、この恐慌が引き金です。また、女性労働者の増加や児童労働問題が表面化し、社会改革のきっかけとなりました。

経済全体として、成長率が低下。1880年代の年平均成長率5%から、1890年代初頭は2%台に落ち込みました。しかし、この恐慌が日本銀行の役割を強化し、民間への資金供給システムを整備する契機となりました。 国際的には、銀価格の下落が続き、金本位制への移行を加速させました。

解決策と教訓:金本位制導入への道

政府の対応は、恐慌発生後の1890年夏から本格化。日本銀行が民間銀行を通じて資金供給を増やし、金融安定を図りました。これが、日銀の「貸し手」役割の確立につながりました。

長期的な解決として、1897年の金本位制導入が挙げられます。日清戦争の賠償金で金準備を増やし、通貨安定を実現。この移行は恐慌の教訓から生まれ、以降の経済成長を支えました。 RIETIの論文では、1890年代の通貨レジーム変化が物価安定に寄与したと分析されています。

教訓として、投機の危険性と金融規制の重要性が挙げられます。現代のバブル崩壊(例: 1990年日本株暴落)と類似し、過熱投資のリスクを警告します。経済史では、この恐慌が日本資本主義の成熟期の始まりと位置づけられています。

結論:恐慌から学んだ近代日本の経済力

1890年の恐慌は、日本初の資本主義危機として歴史に刻まれました。ブームの崩壊がもたらした痛みは、経済制度の強化を促し、日清戦争後の繁栄につながりました。今日の視点から、持続可能な成長の重要性を教えてくれます。恐慌は一時的な試練ですが、そこから生まれる改革が国家の強さを築くのです。

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